Semiconductor Portal

HOME » ブログ » インサイダーズ » 服部毅のエンジニア論点

フラッシュメモリは東芝が発明したと胸を張って言えるか?

NANDフラッシュメモリは東芝で開発された技術であることは疑いの余地がない。東芝だけではなく日本の主要半導体企業ではDRAM全盛だった最中の1980年代に、東芝の舛岡富士夫社員が発明した。しかし、フラッシュメモリは東芝が開発したと胸を張って言えるだろうか。

東芝はNANDフラッシュメモリ技術を1992年にはSamsungに惜しげもなく供与してしまった。「(舛岡氏は当時を振り返り)『(東芝は)半導体技術をきちんと評価してこなかったのに、いまさら技術流出を言うのは遅い』と憤る。」と新聞は伝えている(参考資料1)。舛岡氏はフラッシュメモリ研究を取り上げられ、部下もおらず予算もつかない技監(舛岡氏によると閑職(参考資料1))に追いやられてしまう。当時、東芝だけでなく日本勢はDRAMに全精力を注力していたため、会社から冷遇された舛岡氏は、1994年に依願退職した。同氏は、最近、「研究を続けるには会社を辞めるしかなかった」と振り返っている(参考資料1)。彼の部下たちの多くもIntel、Micronはじめメモリライバル企業や国内外の大学へ転職していった。

舛岡氏は、退職10年後の2004年に、自分の発明に対する正当な対価を求めて雇用主だった東芝を相手取り東京地裁に訴えた。2006年に裁判所の仲裁で和解に至るが、その過程の話として、特許件数世界一としてギネス登録されている半導体エネルギー研究所の山崎舜平社長が、半導体産業人協会機関誌の中で次のように回顧している(参考資料2)。

「東芝の知財担当者より何時間にもわたる「どうしようか?」との相談が(山崎氏に)あった。『彼の発明は全く価値が無い』、『その根拠として、(山氏の)数十件の発明を利用させて欲しい』。しかし、そのことは第三者には伏せておき、舛岡氏の発明の特許は東芝特許として有効に使いたい。『知恵を貸して欲しい』というものだった。(中略)あとから、『おかげでまるく収まった」と(東芝の担当者に)深く頭を下げられた。特許料をいただき、こちらが感謝すべき立場であるが、逆に感謝されてしまった。」(カッコ内は著者補筆)。
東芝は、裁判係争の上のこととはいえ、そこまでして元社員のフラッシュメモリ特許を無価値とし、しかも特許料を第三者に払っていたとは信じがたい。

「フラッシュメモリは忘れ去られた舛岡が発明した」
ところで、米国カリフォルニア州シリコンバレーのGoogle本社のすぐ近くに「コンピュータ歴史博物館(Computer History Museum)」がある。その名称を示す銘板の下にThe first 2000 years of computing(計算の歴史の最初の2000年分の展示)というしゃれた言葉が刻んである。確かに、古代中国のそろばんも展示されてはいるが、第2次世界大戦以降のコンピュータの歴史は、半導体発展の歴史でもあるので、ベル研究所の点接触型トランジスタ実験模型、Shockleyが使っていた研究ノートはじめ、さまざまな半導体の歴史的遺物が展示されている。

そんな中に、フラッシュメモリのコーナーもあり、そこには、異例とも言えるほど大きな舛岡富士夫氏の顔写真が掲げられ、その下に、以下のような説明が添えられている(写真)。


写真 東北大学名誉教授の舛岡富士夫氏 米国カリフォルニア州マウンテンビューのコンピュータ歴史博物館で著者撮影 写真の下のテキストを翻訳すると以下のことが書かれている

写真 東北大学名誉教授の舛岡富士夫氏 米国カリフォルニア州マウンテンビューのコンピュータ歴史博物館で著者撮影 写真の下のテキストを翻訳すると以下のことが書かれている


「メモリを発明したが、忘れ去られた感じ
舛岡富士夫は東芝に勤務していた1984年にフラッシュメモリを発明した。舛岡のアイデアは絶賛されたが、舛岡自身はそれにあずからなかった。
不幸にして彼の業績に対して東芝は報いなかったために、舛岡は東芝に辞表を出して東北大学の教授になった。企業への忠誠心という日本の文化に逆らってまで、彼は発明に対する対価を求めて裁判に訴えた。その後、8700万円(75万8,000ドル)で和解した。
フラッシュメモリは、一瞬にしてデータを消すことができるところからそのように名付けられたが、舛岡が発明して以来、デジタルカメラや携帯電話や携帯音楽プレーヤーの主要部品となって今日に至っている。」

これがフラッシュメモリ紹介の全文である。と同時に、米国シリコンバレーの受け止め方である。舛岡氏は、現地では尊敬の念をもって受け止められている。もともと、Intelは彼の発明を最初から高く評価していたから当然であろう。

上記の説明文和訳では、「東芝が報いなかった」と単に否定形で訳しておいたが。実際にはToshiba's Failure(東芝の失態)という厳しい言葉が使われている。これは舛岡氏だけではなく、シリコンバレーの現地の受け止め方でもあろう。ちなみに、この博物館は、半導体の歴史を正確に後世に残すため、多数の関係者にインタビューして、その膨大なビデオを保存していることでも有名である。同博物館の学芸員は、上記の説明文を書くために、舛岡氏にはもちろん、多数の関係者にも会い、Intelはじめシリコンバレー各社での舛岡氏や東芝に対する評価もヒアリングしたことだろう。

舛岡氏は、最近、新聞のインタビューで「東芝がちゃんと半導体を評価していたら今の危機はなかったかもしれない」、「半導体を正確に評価できる人が東芝のトップにいなかった。いや日本を見渡してもいなかった」と述べている(参考資料1)。

そんないわくつきのNANDフラッシュビジネスが、世界的に半導体メモリ企業業績絶好調のこの時期に売りに出されている。東芝でも断トツのキャッシュカウだというのに、東芝は、社員が発明したこんなにすばらしいNANDフラッシュメモリを捨ててまでして一体何を守るというのだろうか。NANDフラッシュは、最初から最後まで、あまりに粗末に扱われすぎていないだろうか。

参考資料
1. 東京新聞2017.4.6付「フラッシュメモリー生みの親の元東芝社員 『半導体、正確に評価されなかった』」
2. 山崎俊平「若き日の思い出」、半導体産業人協会会報Encore No.89、pp.12-17、2015年7月

Hattori Consulting International代表 服部 毅
ご意見・ご感想