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トランジスタ発明秘話:75年前のクリスマスイブに・・・・

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75年前のクリスマスイブに・・・・
今からちょうど75年前の1947年(昭和22年)の暮れも押し迫った12月23日火曜日の午後のこと、米国ニュージャージー州マレーヒルのベル電話研究所(注1)で2人の研究者、バーディーン(J. Bardeen)とブラッテン(W. H. Brattain)(図1奥の2人))は、発明したばかりの(正確には、信号増幅作用を発見したばかりの)点接触型トランジスタを研究所の幹部にみせていた。もっとも、これが、「トランジスタ」と命名されたのはずっと後のことであるが(注2)。

ウイリアム・ショックレイ(手前)、ジョン・バーディーン(奥左) ウォルター・ブラッテン(奥右)

図1 1956年に「トランジスタ効果の発見」でノーベル物理学賞を受賞したウイリアム・ショックレイ(手前)、ジョン・バーディーン(奥左) ウォルター・ブラッテン(奥右)の「記念写真」(注3)


トランジスタとはいっても、n型ゲルマニウムの大きな土台(ベース)の上に金線の針が2本立っているだけの単純な構造で、その2本の針はプラスティックでできたくさびと太い針金のばねで支えられていた。まるで、小学生の夏休みの工作といった感じの実験装置だった(図2)。


点接触トランジスタ実験装置

図2 点接触トランジスタ実験装置


1947年のクリスマスイブの記録

彼らの上司だった物理研究部長のフレッチャ(H. Fletcher)は、「本当に増幅作用を確信したのかね?ただ単にインピーダンスがマッチングしただけじゃないの?発振器を作ることができれば動かぬ証拠になるんだがね」と多少不満げに部下の説明を聞いていた(参考資料1による)。

この時の模様は、ブラッテンが翌24日(水曜日)に自分の研究ノートに書き込み、それが今でも残っている。「ブラッテンのクリスマスイブ(1947年12月24日)の記録」として有名なものである(図3)。

Brattain Dec. 24, 1947

図3 「ブラッテンのクリスマスイブ(1947年12月24日)の記録」として有名なブラッテンの研究ノートの一部 先発明主義(当時)の米国では、研究ノートには、右下のように記述内容を第3者が「読んで理解した」としてサインと日付を記入して発明日を明確にするきまりがあった。


しかし、トランジスタの発明者としてもっとも有名なショックレイ(W. Schockley)は、この点接触型トランジスタの発明の瞬間(ブラッテンの研究ノートの記録によると、1947年12月16日)に立ち会っていなかった。所用で外出していたと言われている。


1947年のクリスマスからの1カ月

このことについて、彼は回顧録(参考資料1)の中で次のように赤裸々に書いている。
「点接触型トランジスタの誕生は、研究グループ全体に素晴らしいクリスマス・プレゼントとなった。もちろん、私もその喜びに預かった。しかし、私の心には、葛藤があった。私は発明者の一人ではなかったのだ。だから、手放しでは喜べなかった。私は、8年以上前から人一倍努力してきたにもかかわらず、自分自身の手で発明を行えなかった。そのために欲求不満に陥った。」(注4)

この欲求不満がバネになって、彼は部屋に閉じこもって一人で猛烈に思考実験を繰り返し、翌1948年6月28日に、現在広く使われているバイポーラトランジスタの原型である接合型トランジスタの特許出願を果たした。ショックレイの1947年12月24日から1カ月間の研究ノートの書き込み量は、彼の生涯の中でピークに達した。彼のこの執念は、今でも語り草になっている。

当時、ショックレイの友人は、彼に「特許出願したトランジスタが、実際に動作することが確認されたら、パーシスタ(Persistor)と命名したらいいよ」と冗談を言っていた。実際にこのトランジスタの動作確認されたのは、2年以上後の1951年のことだ。それまで毎日、実験失敗の連続だったという。しかし、あきらめることなく悪戦苦闘を続けた彼の粘り強さ(Persistence)が窺える。彼は、回顧録の中で「私たちは完璧な人間ではない。でも、粘り強さがそれを補ってくれる」と述べている。


計画的な実験の中から偶然に誕生

当時、ベル研では、電話交換機に使われてきた信頼性の低い金属コンタクトや真空管を電子デバイスで置き換えることを目標に、固体表面物性の研究が精力的に行われていた。そして、トランジスタは、失敗に失敗を重ねた計画的な実験の過程から偶然に誕生したということができよう。

そこには、極めて人間臭い喜びと不満と嫉妬の葛藤のドラマがあった。トランジスタの発明者は3人ともすでにとっくに黄泉(よみ)の人となってしまった今、75年前のクリスマスイブの前後に起きた一連の人間臭い「事件」の真相は、もう誰にも分らない。

注釈
1. ベル電話研究所(Bell Telephone Labs):米国電話電信会社(AT&T)の前身のBell Systemの研究機関として1925年に設立されたが、紆余曲折の末、今は、買収したフィンランドの「NOKIAの研究所(NOKIA Bell Labs)」となっている。かつて多数のノーベル賞を生み出した面影はもはやなく、米国の技術的衰退の象徴的存在となっている。
2. トランジスタ(Transistor):1948年にベル研究所の研究を統括する立場にあったJohn Pierceが命名した。「この素子が何をするものであるかを考えて、Transistorと名付けた。当時、この素子と真空管が併用されると考えられており、真空管にはトランスコンダクタンス(Transconductance)があるので、トランジスタには「トランスレジスタンス」(Transresistance)があるだろう。そして、バリスタやサーミスタなど既に存在していたデバイスと調和する名前であるべきでしょう。それで私は「トランジスタ」(Transistor)という名前を提案した」とのちに述べている。
3. トランジスタ発明者3人の写真:これは、ノーベル賞受賞記念にベル研広報部が1956年に撮った「やらせ写真」である。実験したのは、バーディーンとブラッテンであって、ショックレイではないので、2人ともこの写真を嫌っていた。2人は1948年以降、パワハラ上司のショックレイの元から離れ、トランジスタ研究からも離れていった。バーディーンは、1951年にイリノイ大学へ移り、1972年に超電導の研究で2つ目のノーベル物理学賞を受賞した。ショックレイは、1955年に米国西海岸に半導体研究所を設立したが、ベル研からは誰も引き抜けず、新人を採用するも二年後に8人が所長のパワハラ嫌って辞職し、フェアチャイルドセミコンダクタを創業し、さらにはインテルがスピンオフして、シリコンバレーの基礎を築いた。ショックレイは彼らを「裏切りの8人(traitorous eight)」と呼んで生涯恨んだといわれている。今日のシリコンバレーの繁栄は、ショックレイのパワハラ(当時はそんな言葉はなかったが)によるところが大きい(?)と言えるかもしれない。
4. ショックレイの心の葛藤:筆者は、1970年代、スタンフォード大学大学院留学時に、ショックレイ名誉教授の1回限りの特別講義を聴講したが、その際も、30年も前の心の葛藤について悔しそうに語っていたのが印象的だった。当時、人種差別主義者として悪名高かった彼は、精子銀行に登録し、大学に「優生学」の講義開講を申し出て拒否されており、多くの学生は彼を嫌っていた。米国の半導体の世界で、ショックレイはすでに過去の人となっていたのは、多くの日本人留学生にとって驚きだったが、それと共に、米国社会で生きる厳しさを思い知らされた。

参考資料
1. William Shockley, “The Path to the Conception of the Junction Transistor”, IEEE Transactions on Electron Devices, vol.ED-23, no.7, pp.597-620, (July 1976)。なお、本論文20ページを超える異例の長文であり、日本語翻訳は「日経エレクトロニクス」1977年5月30日号、6月13日号、6月27日号、7月11月号に連載され、のちに「エレクトロニクス/イノベーションズ」(日経マグロウヒル、現日経BP、1981年刊)に収録された。

国際技術ジャーナリスト  服部毅

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