AIや仮想空間技術を用いた環境・安全教育(前編)
前報(参考資料1)で半導体製造人材育成に関して教育カリキュラム立案作成の重要性を説き、その一例を示した。その他にも重要な教育分野の一つに環境・安全教育がある。環境保全と作業者安全とは別のカテゴリーとも考えられるが、相互に関連する事項も多いので、本稿ではまとめて記述する。本稿の目的は半導体製造技術関係者に環境・安全教育のテーマあるいは題材例をお示しし、受講生が自分の事として捉えてもらえるような実践的なテキストやスライド、ビデオなどの教材を作成して頂くための素材を教育者に提供して、環境・安全教育の一助として頂くことにある。
環境安全教育に実践性と科学の香りを加えよう
一般的な環境・安全教育に関しては、既に多くの教習もなされており、例えば東京大学環境安全管理センターのウェブサイトでも視聴できる(参考資料2)。また先端技術の仮想空間技術(以降VR技術)を用いた教材も既に発表されており(参考資料3)、その教育の重要性が認識されている。しかし半導体製造技術に絞った場合、環境・安全教育に関する章を設けている工学書は、僭越ながら拙著(参考資料4)以外には無い、あるいはあるとしても少ないだろう。それさえも実際の講義では、時間の関係で制約を受けてそこを飛ばすか、あるいは講義をしても聴講生の居眠りの時間になってしまうことも多かった。
その理由はなぜだろうか。半導体製造・要素技術に関しては東北大学名誉教授の故大見忠弘先生が「経験と勘に基づく技術から脱却して、本物の科学に立脚した技術へ」と繰り返し述べておられたように(参考資料5)、いわゆる「泥臭い」中でも科学や学問の香りがする。一方環境・安全技術においてはそれがいささか欠けていた。例えば環境保全教育としてはISO規定の紹介や、一般的なコンプライアンス法律などの紹介が多く、また作業安全教育では過去の事故事例や発生頻度などの注意が基で、それこそ経験と勘に基づく話が主であった。学問としてはせいぜい事故発生確率など統計学による紹介があるだけで、「本物の科学」や学位論文から遠いと思われ、受講生の興味の対象から外されてきたきらいがある。
そこで本稿では、科学や学問に立脚した環境・安全教育ができるよう、例として仮想現実(以下VR)など最先端のAI技術を活用する教材作成案を記述する。これにより聴講生の要望に即応できる。またそれを逐次その時代に応じて刷新していけばマンネリを避けることもできるという提案である。受講生が身を乗り出すような教材ができることを願っている。
なお、本稿では以降「題材」とはテーマ、あるいはバックグラウンドを意味し、「教材」とはその背景の基に作成された、テキスト、スライド、あるいはビデオなどを意味するものとする。題材は実践性を高めるため筆者の実体験を基にしているが、生成AIなどで一部の内容だけが独り歩きし、登場者にご迷惑をお掛けするのを避けるため、実名の公表を差し控えて、架空の話として構成した。従って多分に実態を脚色せざるを得なかったことも予めご了承願いたい。
さてシランガスを使いだした頃に報道された半導体工場や研究所での大きな災害事故(参考資料6)は、最近ではあまり聞かない。それは過去の事故を参考にして再発防止を徹底するようになったからであろう(参考資料7)。いつの時代も過去の事故事例に学ぶことは大事である。しかし事故そのものを発生させないようにすることもそれ以上に重要である。つまり事故が発生してから「想定外だった」と悔やむより、それを予め「想定内」にして予防する努力が求められる。そこに最先端の科学であるAIをもっと活用しようというのが本稿の趣旨である。
本稿では一般の半導体製造技術者にはなかなか想定できないが、しかし重要な意味を持つ二つの具体的なテーマを選び、前後2編に分けてそれぞれ記述する。前編で記述する事故は、進展著しい現在のAI技術を使えば「想定外」を「想定内」にすることも可能ではないだろうかと考えて頂く事例である。先を読む技術のAI使用例として既にサイバー犯罪を防ぐ意味で、ハッカー集団が考える先を、予めAIで予想し先手を打つセキュリティ技術も最近発表されている(参考資料8)。AIで先を予想する技術は囲碁将棋の世界では普通のことなので、今更改めて言うほどのものではないかも知れない。
本稿は筆者のスコットランド工場勤務時代の経験が基になっている。当時インドではユニオンカーバイド社インド工場でガス漏れ事故が発生し大惨事(参考資料9)に至った件が、よく話題になっていた。半導体工場でも毒性の特殊ガスや、化学薬品を使う。赴任した時は「絶対このような事故を起こさないように気を付けねばならない。もし作業者、技術者に犠牲者が出た場合、あるいは周辺環境に影響を及ぼした場合は、身の処し方まで心に決めて掛からねばならぬ」との思いで日々臨んだものであった。非常ベルが鳴ったときは必ず、社長自ら現場に駆け付けることを心掛けた。環境・安全にかかわる事故は、いったん発生した場合、その影響が大きいこともあるので、決して軽んじてはいけない。
また後編の題材では、そこで定義する広義のVR技術を使うことにより、「想定外」を「想定内」にし、その題材を使って環境・安全教育のための、半導体製造技術者にとって魅力あるテキストなりビデオ教材を作成するという提案である。
先ず前編で使う題材を具体的に説明しよう。繰り返しになるが、本稿では、広く半導体製造技術者育用の実践的な教材作成のためのシーズを提供したいとの一念でまとめている。決してこのテーマの内容をてらうのが目的ではない。また環境・安全教育はこの題材に限るものではないことも言うまでもない。
フッ酸水漏洩事故
建設されて間もない工場内に薬品や特殊ガスの自動供給システムが導入されていたと仮定する。半導体工場ではシリコン酸化膜のエッチング工程などでフッ酸水を使うことが多い。その新設工場でもフッ酸溶液の自動供給システムによりフッ酸水のタンクから工場内の装置に薬液を送るシステムとなっていたが、偶発的にタンク出口のパイプが外れて、フッ酸水溶液100リットルが床に漏れ出してしまったという事故を頭の中に描いてもらいたい。
自動供給システムは微細加工を行うクリーンルームとは異なる区域に設置されていたので、クリーンルーム内の作業者には直接の被害は及ばないが、その自動供給システムの設置区域にはフッ酸蒸気が充満して、空気呼吸器を着用しなければ人は入れない状態になってしまった。しかも当時の空気呼吸器の面体は眼鏡使用者には着用できないものであった。筆者は面体を上下逆さにして、手で押さえながら現場に入り状況を視認せねばならなかった。
通常なら、フッ酸水であればすぐ大量の水を床に流して洗い去ればよいと考えるだろう。ところが残念ながら、この場合はプラント設計時にそのような事故は想定外だったため、床に排水溝もなければ、外部に水を排出するドレインもない。そこへ大量の水を流せばますます床上にフッ酸水が拡がるだけである。なんとかフッ酸水を吸い取る案がないかと考え、トイレットペーパなども検討したが、それでは到底間に合わないと判明した。結局、タオルを大量に購入してきて、吸い取るという作業をすることになり、当時のマネージャー以下、薬品知識や装置技術に詳しい専門の技術者達による慎重な作業の結果、幸運にも一人の怪我人も出さずに事態が収拾された。
工場を管理する製造技術者として、直ちに事故原因を究明し対策を立てねばならない。
Research 1)なぜパイプが外れたのか。その対策はどうすればよいか。
Action 1)直ちに自動供給システムメーカーと相談し、パイプが外れないようなベルトを巻き付けるなどの応急対策をするとともに、日常点検項目に接続部緩みチェック項目なども加える。そして恒久的な対策を自動供給システムメーカー、あるいはその部品メーカーに依頼した。
R2)なぜプラント設計時にそこに設置する装置でパイプが外れる不測の事態を想定しなかったのか。またなぜ床面に液漏れなどの不測の事態に備えた排水溝や排出口を設置しなかったのか。
A2)プラント設計技術者の経験不足であり、それにプロセス技術者との意思疎通不足が重なったことが主な理由である。建設コスト低減を最優先していたこともあり、床の設計には梁の構造や耐荷重しか計算されていなかった。つまりこのような事故は誰も想定していなかったため床に水を流すことは想定もされず、従って水捌けを考慮した傾斜のある溝や排出口を付けることは全く考慮されていなかった。床の厚みからも、後から溝を作ることすら難しいことも判かった。
もちろん、床の強度維持を考慮しながら、事後でも排水溝や排水口を設置する案も、技術的には不可能ではない。しかし検討すべき事案も企業により、また予算に応じて多種多様になるので、本稿ではそこまでは踏み込まないことにする。但しこの経験を後のプラント設計技術者に伝承され、二度とこのような床設計をしないよう、プラント設計のマニュアルに組み込むことは恒久対策として必ずやらねばならない事項である。筆者の知る範囲内では、以降建設された関連会社工場ではこのような事故は皆無である。
R3)非常時の訓練はなされていたのか。
A3)クリーンルーム内で重大な異常が発生した場合、技術者の指示で場内放送がなされ、作業者は直ちに退避するという訓練は、日頃から徹底されていた。この訓練は人命第一という観点から、今回の自動供給システムに対して恒久対策が立てられた後でも、継承されねばならない。またこの種の異常が発生する装置は、単に薬品自動供給システムに限らず、特殊ガスボンベなどでも考えられるので、工場建設時には容易に対処できるようにしておく必要がある。会社が作業者に怪我をさせるようなことは、あってはならない。
AIやVR技術の活用で予測予防
さて、そもそも一般の半導体製造技術しか知らないプロセス技術者や機械設備技術者に、このような事故発生時に、建屋構造起因の理由で対処に制約がかかるなどという想定が、事前にできるであろうか。個人の能力にも限界がある。しかしそのような個人でも、現代であれば最先端のAI技術を使って予測ができるのではないかと考える。
工場における事故の予知保全としては、センサーを使ってそのデータを時々刻々AIで解析し、異常が起きそうな予兆を感知して予知保全を行うのが一般的なAIの活用である(参考資料10)。しかし前記のような溶液タンクからパイプが抜ける事故などに対しては、前兆を感知するのは難しい。タンク内の圧力センサーや、タンク周囲の漏液センサーを使う案もあるだろうが、そもそもセンサーを付けるということは、その事故を想定していたことになる。
一方プラントのリスクアセスメントでは古くから設計時にリスクを想定して対策を立てるやり方がなされている(参考資料11)。そのリスク想定は過去の事故事例の経験が基になっている。過去の事故事例を基にできるとするなら、それは現在のChatGPTの得意分野であろう。過去の事故事例がインプットされている生成AIであれば、探索回数を重ねることによりプラント設計者が予想していないリスクを炙り出し、「想定外」を「想定内」にできるのではないだろうか。
既にVR技術でプラントを3次元で表示し、リスクの高い個所を見つけ出して対策を立てる方法も発表されている(参考資料12)。注意深くその技術を使えば、ChatGPTでチャットを繰り返し、ここは大丈夫か、ここにリスクはないかと探索を繰り返すことにより、接続パイプが外れるリスクなどは簡単に見つけられよう。このような技術を活用すれば、プラント設計者なら、あるいはプラント設計図をチェックする半導体製造要素技術者でも、パイプが外れ溶液が漏れ出したらどうするかなどは、当然気が付いて対策が考慮されるはずである。そしてプラント設計時に対策案が容易に織り込まれるであろう。
ここで示した題材を基に、上記のようなAIやVR技術活用による対応策が組み込まれた環境・安全教育用の教材が生まれることを期待したい。それが製造技術者養成教育カリキュラムに組み込まれれば、この題材のような事故も防げるだろう。ぜひこのようなAI技術、VR技術を応用した教材を使う、実践的な製造中核人材育成教育が望まれる。それにより環境・安全教育も高度化される。ここに記述した題材を有効活用して、検討結果を教材作成に反映させていただければ、「勘と経験から脱却し最先端の技術に基づく」環境・安全教育が可能になろう。
筆者はその後第2の人生で、環境・安全部門を担当した折、環境規格ISO14001の主任審査員資格を取って、グループ企業の関連工場を監査する立場になった。そこでは必ずタンクの日常点検マニュアルとその実施状況のチェックも含めるようにしていた。またタンクの中身が仮に全部漏洩したときに備えて防液堤設置や、それに加えてローリーとタンクとの接続作業手順書の完備を審査徹底することも心掛けていた。タンク内の内容物に応じて漏洩後の処置も異なってくるので、工場内環境のみでなく、工場外環境に及ぼす影響評価も欠かせない。ISO14001の考え方が有効であると言われるのは、そういう意味からである
筆者としては、上記のAIやVR技術を使う教材を自ら作成し、できることならここで実例を提示して議論を深めたかった。しかし筆者にはAIやVR技術を使った実務経験もないので、それができない。隔靴掻痒(かっかそうよう)の感が残り、忸怩(じくじ)たる思いである。しかし今は大学入学共通テストでも情報Iが加わる時代である。新進気鋭の後進の方々には、近い未来に、例えば上述したような題材を参考にして、実践的で高度な教材を作っていただき、環境・安全教育の向上を図っていただけることを期待したい。また上述の題材はあくまでも一つの事例なので、これに限ることでもない。広い視野で教材が作成され、カリキュラムに組み込まれることを願っている。
謝辞:全文をいつもの通り津田編集長に見て頂いた。心から感謝の意を記したい。
残念ながら生成AIなどでは、著作権についての制限もまだ確定していない。SNSで偏った情報が流れる時代でもある。そのため本稿では登場者に万が一にもご迷惑をかけないよう実名を避け、架空の話として構成せざるを得なかった。本件で筆者を支えてくださった当時のマネージャー諸氏のご努力に対する感謝と敬意の念は今でも、いささかも変わってはいないことを明記しておく。
参考資料
1. 鴨志田元孝、「『受講者がもっと受けたくなる』実践を重視した人材育成教育のカリキュラム」、セミコンポータル、(2024/06/06)
2. 例えば、「東京大学環境安全管理センター 環境安全教育 | 環境安全研究センター」
3. 参考資料2においては、VRを使った教材例として「VRを活用した教材」
4. 鴨志田元孝, 「改訂版ナノスケール半導体実践工学」(丸善)(2013年3月第2刷),中でも第10章、特にp.322演習問題6は半導体工場での防災訓練の関する課題である.
本書は既に絶版であるが, 国会図書館には改訂版出版時, 増刷時に寄贈している.
5. 東北大学NICHeセミナー「大見研究室の最先端の取り組み 〜 サイエンスに基づいた産業技術革新の実績 〜」、東北大学未来科学技術共同研究センター
6. 例えば、中尾政之、「大阪大学でのモノシラン爆発事故」、失敗知識データベース−失敗百選
7. 例えば、林年宏、「半導体関連産業における事故例」、安全工学33(No.6), pp369-375(1994)
8. 例えば、福岡沙紀、「【製造業のためのAI】 OTの脅威となるランサムウエアの2024年動向と対策を徹底解説―AIを用いた対策とは」、IT Media Virtual EXPO 2024(2024.8.27-9.27)
9. 例えば、ボパール化学工ユニオンカーバイド場事故 - Wikipedia
10. 例えば、「AIによる予知保全の活用事例8選!IoTセンサーとの連携で故障検知」、AI Market、(2024/09/23)
11. 例えば、「プロセスプラントのプロセス災害防止のためのリスクアセスメント等の進め方―実施マニュアル」、労働安全総合研究所発行
12. 例えば、久郷信俊、「3Dプラントモデル産業保安高度化プラットフォーム」、安全工学、Vol.59、No.6、pp391-399 (2020).